一、はじめに    

今回に発見された「桃山勝利鼓」は、北野天満宮の信者配布された利益を離れ小太鼓である。信長が生涯掛けて愛玩した「御神鼓」である。
鼓は鋲の打ち方からして古作であることに間違は無く。大名や武将が持つ様な華麗な小細工や装に飾は一切見られない。

 それ故に素朴な鼓は、信長が生涯に渡って拘った、「総見」と云う座右銘を、解き明かす事の出来る唯一の遺品である。

 太鼓は古来から悪魔払いの儀式として、重要な一品として珍重されてきた。そうした起源の要因は中国にある。
大陸では新しき年を迎えるにあたり、竹を燃やして竹の節の中の空気を膨張させて爆発を起こす。此の破裂音を闇に住む悪霊や鬼達に聞かせて驚かせる力がある。
此の破裂する神音に鬼達は耐えきれずに逃げて行くと、身の回りに起きる災いを除くと云われいる。
爆竹を破裂させて鬼を追い払う習慣は、我が国にも伝わり各種の魔除け神事が行われる様になった。

 我が国に伝わって来た破裂音の神音思想は、色々な魔除け思想に転化して伝承されてきた。
弓術では鏑矢を射る神技の儀式となり、鏑矢の放つ神音が悪霊を祓うと云われて、「破邪魔矢」の儀式となった。
震動音は神音として悪霊が嫌うと信じられたので、各地に魔除け太鼓が伝わっている。

 太鼓をひとたび打ち鳴らすと、其の強い響きは閃光を放つ稲妻の雷鳴となり、闇に住む悪霊達に響が到達する。
悪霊達は太鼓の神音の響きに居たたまれずに逃げ出して行くと信じられた。
それ故に古来から太鼓は戦場で多用されて、味方軍勢の進退を指示したり、隊士の戦意を高める為た多用された。
武将達は太鼓の勇壮な響きを好み、戦の勝利を招く神音として尊ばれて「陣中太鼓」として大切に扱われた。

奈良時代の「軍防令」には各軍団ごとに笛と共に鼓を置くと規定されている。式官の合図と共に陣への参集・進退の合図に用いられている。
古い戦記記録には鼓や太鼓を並べ乱声の様な響きを「攻め鼓」として使用された記録がある。

 戦国時代となると集団体制は、組織的に統括をされて行き指揮する様になっていった。
信長の「長篠合戦図屏風」には、此所に描かれている叩き棒は、此の伝世品と同形である事は驚きである。

 

二、保存箱と太鼓の寸法

① 円形の線書き

 外箱縦寸法:40.5㎝
 外箱横寸法:32㎝
 外箱高寸法:14㎝
 上蓋高寸法:4.5㎝
 下箱高寸法:9.5㎝

② 円形の線書き

 漆無し:28㎝ 
 朱漆 塗り:2.0㎝
 漆 無 し:0.8㎝  
 黒漆 塗り:2.5㎝
 漆 無 し:0.5㎝
 三巴紋茶漆塗り:12㎝
   表面 上下:梅紋二個
    左右:十六弁菊紋二個
      合計:二種・四紋
   裏面 左右:梅紋二個
    合計:二紋

③ 叩棒 形状 珠玉形(8個凸状棒)先端は玉形

 全長:21㎝
 柄長:18.2㎝
 先玉:2.8㎝
 数珠形:15.5㎝
       (山形八個)

④ 鼓の側面の朱書き文書

 叩き棒には小さいながら、朱書き文字がしっかりと書かれている。
文面は太鼓の胴板に記載された文書と同文であるが、朱漆が転々と剥がれていてカスレが多くあるが、筆跡痕の残筆跡から何とか判読は可能である。

 公□□□□ (公桶狭間之)
 □□□□□□□ (御陣勝利太鼓也)
 □永□七□□□□□ (時永禄七季正月)
 □日□辰入宝 摠見寺 (吉日辰入宝 摠見寺)
 (□はカスレ)                              

公桶狭間之御陣勝利太鼓也 干時永禄七季正月吉日辰入寶
  摠見寺什  覚忍 花押

⑤ 「保管箱の蓋に書かれている金泥文」

此鼓者桶狭間之役織田信長公御陣給使之物也傳ニ曰公間道を襲ひ可申候時馬上ニ此を使勝利を得可申品御自より勝利し鼓と銘号して平常之を寵愛候可申品将宴御挙事ニ使之后量公而賜之桃山勝利鼓到可是也 此鼓ハ筑前国太宰府天満宮ノ神蔵也公得之陣鼓トス天神縁起ニ載ス処此鼓者後奈良天皇ノ御寄進物也ト云

 鼓側面に

公桶狭間之御陣勝利御太鼓也

干時永禄七季正月吉日辰入宝摠見寺什 覚忍 花押アリ
天保五年甲牛正月吉祥日    下間家蔵

 

三、幻の寺と云われた摠見寺について

 摠見寺と云う旧漢字は現代の当用漢字にはなく、一般には「総見寺」として表記されている。

信長が生涯に渡って執心した「摠見」と云う語源は、一般には「総てを見渡す」として、信長が生涯を通して座右の銘として、好まれた有名な語句である。

 この「摠見」と云う文字を愛好した信長は、生前より自ら戒名として「摠見」と云う文字使用を望んでいたと云う。

 天正七年(一五七九)に安土城を築城した際には、城郭内の西方峰に鈴鹿山の江雲寺を移して「摠見寺」を創建した事は有名である。
信長は創建に当たっては近隣の社寺から多くの建物を移築し建立したと云うが、残念ながら当時の記録が皆無な為に信長時代の摠見寺に関してはほとんど分っていない。

 信長の死後十年を経過した天正二十年(一五九二)に、豊臣秀吉が摠見寺に領地を与えて、信長の菩提寺と定めたことにより、安土城二の丸跡地に信長廟が建てられたと伝承されている。

 摠見寺は明智光秀の安土城攻めの際にも火災を免れたが、安政元年(一五八四)の失火で本堂を焼失してしまった。
その後、徳川家康邸跡と伝えられる場所に仮本堂を建てられたが、明治維新の改革で寺領を喪失して衰退した。現在の摠見寺は明治以後に出来た物である。

総見寺は織田一族の菩提を弔ってきたが、信長の末裔には建設以前に摠見寺は存在した、とする言い伝えがあったという。
しかし、これを証明する資料は皆無な為に単なる言い伝えとして、忘れ去られて来たと云える。
今回、発見された「桃山勝利鼓」に依って、こうした言い伝えを解き明かすして、歴史の闇を開く事になるであろう。

 信長の次男信雄は信長の死を悼むとともに遺言を守り、戒名を「摠見院殿大相国一品泰巌大居士」として伊勢国大島村の安国寺を清洲に移築させて「摠見寺」を建立した。
秀吉も信長の一周忌を迎えて信長を追悼するに当たり、京都に「摠見院」を建立した。
秀吉は信長の遺骨の替わりに二体の「信長像」を彫刻して一体を棺に入れて埋葬した。残りの一体を摠見院の本堂内に安置して位牌に「摠見院泰巌安公」と戒名を刻んだ。              

 

四、鼓の経緯について  

鼓の経緯に付いては、箱書きに「此の鼓は筑前国太宰府天満宮の神蔵なり」とある。
其処で太宰府天満宮の資料室に調査依頼したが、回答は「不明であり、筑前太宰府ではなく関西地方の北野天満宮ではないか」との回答を受けた。

 関西には北野天満宮が大阪、京都、名古屋に分社がある。名古屋の北野天満宮であれば筑前国太宰府より近く、地域的には入手しやすい距離である。

まず此所に書かれている「神蔵」とはどの様に解釈すれば良いのであろうか。鼓は筑前国太宰府の神前にて祈願れて、

「神蔵」されて保存されていた物であろう。そうした霊力に満ちた鼓として、配布された鼓として評価が出来ものである。

 この太鼓が一般配布を目的として元宮で制作されたものであれば、太鼓は太宰府天満宮の神殿に祀られて、多くの神官達によって一心に祈願が施されたであろう。
太鼓は太宰府天満宮の神威で祓い浄められて聖霊が宿り、神聖なる天神様の神器として昇華されてから、各地の分社に普及用として、特別配布されたのではなかろうか。
この様な霊験あらたかな鼓は「天満宮の神具」として、熱心なる信徒達に特別配布されたものであれば、信長も特に大切に保存されたであろう。

添え書きの記述は「織田信長公は、これを得て陣鼓とした」とあり、その伝来の由来を伝えている。

 信長は元宮の神威を信じて、うやうやしく鼓を譲り受けて、「守り太鼓」として身近に置いた事になる。

 この鼓を入手した時期は不明であるが、信長公記には天文十五年(一五四六)に「古渡城で元服(十三才)を執り行い、織田三郎信長と名乗りを改めた」とある。

 父の信秀は元服した信長に那古野城を譲り、若き那古野城主が誕生した。
信長は十六才~十八才の果敢な時期に、乗馬・水練・弓から兵法や武具に到る諸芸の稽古を行い、橋本一巴から鉄砲を学んだ自由奔放な時期に、名古屋の北野天神を訪れて太宰府天満宮の鼓を知り、望んで譲り受けたのであろう。

 

五、鼓の謎について

 信長は今川軍の大軍之と戦う事と成り、余りにも不利な戦いに暗雲が漂っていた。
そのために出陣の意を決し得ずにいた。信長は突然に太宰府天満宮の鼓を取り出して、鼓を打って敦盛を舞い始めた。
この突飛な舞に使用した「鼓」に付いて何も伝わっていない。
その為に、信長の鼓を知らない人達は、近年に至って「敦盛の舞い」を演じる人々は、肩に置く舞い鼓を使用して演じている。

 下間家の記述では、この「此の鼓は」とあり、此の小さな「小太鼓」を鼓と称している。
ならば、信長が舞で使用した鼓は、正しく、此の北野天満宮の「鼓」であった事に成る。

信長は北野天満宮の「御神鼓」を持ち出して、不利な戦況を振り払う為に、一心不乱に「敦盛の舞い」を「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。
一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」と祈願を駆けて舞いを始めて、一心不乱に鼓を打ち鳴らし続けた。
鼓の神音は全身を包み込み、邪気・邪念を祓い浄めて、我が命を捧げた舞いを終わる。

 信長は勝利の軍神の降臨を全身で悟り、わが身が汚れる前に「具足よこせと、仰せられ、御物具めにれられながら御食を参り、御甲をめし候」とある。

 信長は鼓の神音で洗礼された我が身を汚れる前に、素早く甲冑で固め神意を固めた。
勝利の軍神の降臨を感じて鬼神と化した信長は一人でで飛び出し、其れを知った数名の者達が追従したという。

 

六、桶狭間の戦い            

桶狭間の戦いに付いては、いずれも太田牛一『信長公記』か小瀬甫庵『信長記』、『摠見記』に基づいて語られてきた。
此の三書の記述には相違点が見られることも確かであるが、一般的には信長の家臣太田牛一の『信長公記』よりも小瀬甫庵の書いた『信長記』の方が信頼性が高いとされる。
しかしこれらの書は実際に合戦に参加して体験した見聞記録を残したと云う確証は無く、共に後世に書かれたものであると云わざ得ない。

 その為に実際の桶狭間の戦いに付いては,何処で信長がどの様な戦いをしたかは、根本的には不明な為に多くの 議論と問題を起す要因となっている。                      

 信長公記には信長の行動を「信長公は槍を天に突き出し、大音声で『すわ、かかれえっ』と最後の下知を下した。全軍は義元本陣めがけ黒い玉となって駆け出した」とある。

下間記述には「言い伝えによると、織田信長公が間道から襲いし時にとあり、馬上にて此の鼓を使い、勝利を得たと伝わる」と伝えている。
信長公記は具体的な所在地を示していないが、下間家の記録は場所を「間道」と明記している事は一考に価するであろう。

 信長は太宰府天満宮の勝利神の降臨を感じて鬼神となり馬上、鼓を必死で打ち鳴らし続けたとある、当時の信長の行動姿を具体的に伝えている史料が少ない中に於いて、この様な具体的に行動を記録した文献は他には無い中では、頼れる記述の一つではなかろうか。

 

七、鼓の銘名に付いて

 秘められた天満宮の神威によって、鬼神となった信長は桶狭間戦に勝利して帰国をする。
太宰府の神々に成果を念じた信長は、自から『勝利し鼓』と銘号して「平常これを寵愛し候」とある。

 信長の鼓の愛玩ぶりは、下間家の記述に依って「将の宴を御挙げ事に、これを使う」とある。
信長は諸武将を集めて宴席を成す時には、必ずこの『勝利し鼓』を打ったというから、敦盛を舞ったのでなかろうか。

 信長に取って桶狭間の戦いは、其れ以後の信長の人生に於いて、大きく影響して天下人の階段を駆け上がる一大転機となった。
信長は家臣と共に、桶狭間の出陣の苦楽を噛み締め合うって、猶一層心を引き締め合う為に「勝利し鼓」を打って、敦盛を舞って尚一層の結束に努めた。

 その後になって「勝利し鼓」は、「后量公」よって「桃山勝利鼓」と新しく命名された事が書かれている。
信長に取っては尚一層に人生の最上の心を支える鼓に成っていったであろう。

 

八、永禄の危機          

 信長にとって「永禄七年」は、桶狭間に続く第二の苦難の岐路に立った苦しい時代にと成った。
念願の尾張統一を果たす為に永禄六年六月に犬山城を総攻撃をしたが、難攻不落を誇る犬山城を攻めきれずに苦戦を強いられ帰陣した。
それまでの信長は多くの戦いで勝利を獲得しているが、この戦いでは挫折を味わ事になる。この敗北によって信長は「尾張統一」の夢を断たれ、大きく方向転換を余儀なくされた年であった。

 信長は父の信秀時代から美濃攻めは、宿願の一つであった。美濃攻め作戦を立てる為に、方針を変えなくてはならない。
その為に地の利を得る為に、永禄六年(一五六三)に小牧城の築城を始めている。

 この城は山全体を城郭として、山麓には竪堀・横堀を縦横に張りめぐらせ山の北側を土塁にして主郭部分は石垣で固めた。
登城路などの直線的な作風は晩年に築いた安土城の築城法と酷似していると云われている。

 

九、桃山勝利の鼓の謎

 鼓の記述は「干時永禄七季正月吉日辰入宝」と朱漆で記載されている。奉納された日は単に「吉日」と書かれているのみで、正確な日は漠然としてい無い。
しかし、吉日の次に「辰」とあるのは「八」を示すから、八日であろうか。

桶狭間の戦いは永禄三年(一五六〇)五月十八日であるから、永禄七年は僅かに四年後の事である。信長にとって桶狭間の「桃山勝利鼓」は、天満宮の必勝の霊力が宿っている神器と思えたであろう。
其の「神器」を摠見寺への寄贈を決意するこは、並々成らない覚悟を要したであろう。

 信長は清洲城から小牧城に居住を移して、永禄七年の新年を迎えるとなると、新たなる美濃攻めを開始しなくてはならない。その為には新しい勝利の運気を迎える必要性を強く感じたであろう。
その為に信長の最上秘宝である「桃山勝利鼓」を、摠見寺献上すると覚悟の苦渋の選択を迫られたのであろう。

 下間家の記録には、桃山勝利鼓の献上主の名前は信長ではなく後奈良天皇の寄進としているは驚きである。
後奈良天皇は、弘治三年(一五五七)九月五日に死去しているので、この「桃山勝利鼓」が寄進された永禄七年には存在しない人物である。何故に、後奈良天皇のを寄進者としたのであろうか。

 後奈良天皇の死去から考えると、永禄七年は丁度後奈良天皇の七回法要に相当する。
当時の天皇家は貧して法要が上げられなかったのでろうか、信長が代わり後奈良天皇の七回法要を行って、桃山勝利鼓の献上主を、後奈良天皇の奉納主として鼓の格式を高めて、密かに桃山勝利鼓の献上は、信長の戦勝祈願を兼ねたののではなかろうか。

 摠見寺は信長が大切にしていた、天満宮の神威によって鬼神となった信長の「桃山勝利鼓」を、後奈良天皇の七回法要寄進された摠見寺の覚忍は、一心不乱に鼓の霊力信じて祈祷したであろう。
祈祷が成熟して寺院名の「摠見」の法号と信長に返礼として信長ら与えた。

 信長は摠見寺の荘厳な霊力を受けて、軍神の降臨を得て勝利の道へと導かれて行く。八月になって苦盃を飲んだ犬山城を攻撃して、落城させて勝利し当初の目的を果たした。
その後、成って幾多の戦に不敗を誇りやがて鬼神の武将となって天下人への道を登り始めた。

 信長は「摠見寺」に献上した「桃山勝利鼓」に依って、「摠見」と云う称号を与えられ、生涯の指針として大切に守り続けた。
信長は摠見と云う文字に依って、敦盛を踊った鼓の音が沸きあがり終生に渡って、心に奏でられていたのではなかろうか。と、思いをめぐらす。

 

桶狭間の桃山勝利鼓でも、

 後世の人々は「摠見」の文字を理解しようとして、「総てを+見渡す」という意味に解釈している。
此の度の鼓の出現によって「摠見」と云う文字にこだわった信長の知られざる経緯を探れる事が出来る。

 箱書きに「天神縁起に載す処」とあるが、この「天神縁起」とは「北野天神縁起」を指すものであれば原本は鎌倉時代のものである。
原本は伝世しておらず写本として建久本(一一九四)と、弘安本(一二七八)と慶長四年(一五九九)が現存するが時代的にそぐわない。
この様な言い伝えが真に下間家に有ったとすれば、分社に於いて別の「天神縁起」なる書物が存在していたのか、あるいは時が経つに連れて伝説が膨らみ附会が加わったのではなかろうか。

信長は天正十年(一五八二)五月二日に本能寺に於いて明智光秀に突然攻められて落命した。その後に安土城は攻められて炎上したが摠見寺は戦火を逃れた。
しかし江戸時代の火災に依って総てが歴史の闇に焼失して消え去った。

 

十、下間家の変遷

 「桃山勝利鼓」は信長と敵対関係した下間家に伝来したが、その経緯に付いては定かではない。

 下間家は清和源氏頼光の流で、源三位頼政五世の孫宗重に始まる。祖先の宗重は浄土真宗の開祖親鸞に従って、常陸国下間の地に浄土真宗を建立して下妻蓮位坊と称した。
後に地名の下妻を採用してから下間氏を名乗り、子孫は代々に渡り本願寺に仕えて本願寺の家司・惣領家として勢力を振るった名家である。

本願寺の勢力が更に拡大すると、下間一族は本願寺の内外に於いて大きな地位を確立して勢力を拡大した。
やがて戦国時代に成ると坊官に任命されて本願寺の年寄役家老として総てを仕切る様になった。
下間家は武士の格式を保持していたので、一向一揆などの合戦に出陣して本願寺の勢力を更に拡大した。天下統一を目指す信長にとって、一向一揆を指揮する本願寺下間家とは宿敵関係であった。
双方の対立抗争は激しくなり、信長は徹底した一揆狩りを行った。

 各地の一向一揆は本願寺下間家に集結して信長の軍事集団と抗争を続け、次第に反目は激しくなって行った。
その為に信長は病的なまでに過酷になり冷酷な殺人行為を示して、度重なる戦いの中で無数の犠牲者と血を流して泥沼化した。

 やがて長期戦の様相化して宗教戦争と成ってきたので、正親町天皇は勅命を下して両者の紛争を中止させて和議へと導いた。
下間家は此の和議を受け入れて、頼廉、下間宮内卿家の頼龍、下間少進家の仲孝の三人が署名血判をして双方の抗争は終焉を迎えた。

この和議は下間家一族が信長に屈服させられた形となり、「東本願寺派」と「西木願寺派」に分断させられた。
東本願寺の教如達は下間頼龍に付いた。下間頼廉は顕如に従って本願寺から退去して天満に移った。

天正十九年に秀吉の命により、七条猪熊に宅地一町を与えられ、京都本願寺町奉行に命ぜられた。
下間頼龍は本願寺総領家執事職を務め、能の名手であった仲孝は秀吉・秀次・利家・家康らに招かれて能の上演や指導をし、能関連書「能之留帳」はじめ数冊の著述を残した。

 西本願寺は准如方に頼廉・仲之・頼芸がついた。頼廉の流れである「刑部卿家」、仲之の流れ「少進家」、頼芸の流れ「宮内卿家」と云う三家が坊官職を継承して「下間三家」と称された。

 

十一、桃山勝利鼓を保管した下間家

 下間家に「桃山勝利鼓」が伝承した時期や経緯は定かではないが、下間家と織田信長との関係を探ると信長の異母兄弟である弟の信時の関係が浮かび上がって来る。
織田信時は娘を信長の臣下の飯尾敏成に嫁がせて正室にした。飯尾敏成は本能寺の変で信長と共に戦って戦死した。
これを哀れんだ池田恒興公は、飯尾敏成の妻女である織田信時の娘を池田公の養女として迎え入れた。
やがて池田公は東本願寺の下間頼龍の元に再婚させた。信長と下間頼龍とは長年の宿敵であったが、信長の死後に成って縁戚関係が生じた事になる。

 こうした信長家系との姻戚関係に依って、摠見寺が歴史から消え去る時に何らかの仏縁に依って下間家に「桃山勝利鼓」が託され、密かに秘蔵されたのではなかろうか、と思うと歴史の奇異なる不思議さに接し探嚢したと云えよう。