歴史という巨大な袋は、いま起きた事柄も瞬時にして飲み込まれ、袋の闇へと消え去り、過去という時間の紐に封印される。

 史記の平原君列伝に「嚢中の物を探る」と云う言葉がある。

試みに嚢(袋)に手を差し入れて掻き廻すと、幾つかの極小なる粒に触れた。其れをしっかりと握り締めて、思い切って袋から取り出した。
更に幾つかを拾い集めて接続して広げると体と成る。更に上下左右へと紐を結び付けると平面は立体形を生む。
粗野な糸の原型の空間に試考という布を張り付けると、見えない造形が姿を現す。
更に多彩な塗料を塗り重ねると、本来の姿形は望めないが、闇に消え去った幻影を垣間見る事を臨む探嚢を試みた。

 歴史と云う時間は、いま起きた出来事が瞬時にして飲み込まれ、袋の闇へと消え去り、過去という時間に封印されていく、歴史学というものは、巨大な時間の流れを遡って、多くの先人の記録を多く集めて、其れを文書を比較研究して論説をする。それ故に文献の出典が命である。
しかし文字が無い時代には、そうした記述文献などはあり得ない。
各地に広く点在する遺跡物を掘り起こし、拾い集めた発掘品を思考して、推論や仮説を立てるのが考古学的な論説と云える。

 先の例えの「嚢(袋)」の線(糸・意図)を更に上下左右に展開すると平面は立体形を生む。その空間を試考という布を張り付け、多彩な塗料重ねると、望め無い造形が浮かび上がる。
僅かでも闇に消え去った幻影を垣間見る事が出来る事になれば善い。

こうした私的な試考論は考古学的な試考であり、史学の立場からは外れるものであろう。
それ故に是非の肩を張らずに、キセルの一服味を楽しんで頂ければ其れで善い。

 

島津兼治